命の在り方を思うとき

こんにちは、副住職です。
9月が終わろうとしていますね。
早いもので来週から10月、衣替えです。

前回の更新で書かせていただいた「これからのお寺のこと」については、いろいろ考えながら書いていきたいので、考えがまとまったら都度の更新をさせていただこうと思います。シリーズ更新のような形で。
そのときは「これからのお寺のこと」というカテゴリーで続けていこうと思いますので、またチェックしてみていただけると嬉しいです。

さて、先週から今週にかけてお彼岸でした。
私もありがたいことにお彼岸のご縁もたくさんいただきましたし、築地本願寺にも本当にたくさんの方がお参りに来てくださいました。

このお彼岸と夏のお盆は、日本人の生活に無くてはならないものになっていますね。
元々は仏事であるお彼岸とお盆に日本人が大事にしてきた先祖供養という考え方が結びついたことで、日常生活の中にここまで浸透してきたのですね。
だからか、お盆やお彼岸にはお墓参りをされる方がたくさんいらっしゃいます。
この時期には必ず家族でお墓参りをしにいくという方、お墓が生まれ故郷の田舎にあるので帰省がてらお墓参りにいく、そんな方も多いかと思います。

多くの方はお墓参りというと、先ほど書いたように先祖供養というとらえ方をされていると思います。
生前にお世話になった、かわいがってもらった、そんな故人さまに対しての素直な感謝の気持ちを伝えるご縁になっていますよね。

浄土真宗の教えの中で考えてみますと、実はお墓というのはあってもなくてもいいものなのです。

私たちは阿弥陀様のお用きによって、この世での命、今生での命が終わったあとはお浄土に往生させていただいて仏としての命をいただくわけですから、故人さまもお墓にこもっているわけではないし、お墓に納める遺骨に魂や霊が宿っているわけではありません。
ですからお墓そのものにあまりこだわりを持っていないということになりますね。

それでは浄土真宗でのお墓参りの意味というのはなんでしょうか。

お墓参りをすると、故人さまとの楽しかった思い出や嬉しかったできごとが思い出されることだと思います。
それとともに大切な方を亡くされた、失ってしまった悲しみも、また何年たっても忘れないものなのだと思います。

大切な方との別れの苦しみというものを仏教では「愛別離苦」といいます。

愛別離苦というのは「愛」する人と「別」れ「離」れる「苦」しみと書きますが、私たちは誰しもが、この愛別離苦の苦しみを一度は経験しなくてはいけないのですね。

それはどういうことか、この私たち自身がいつかは必ず今生での命を終えていかなくてはいけないからです。

私たちは誰でも死というものがいつか訪れるものであることは分かっていますよね。
でも、いつ、どこで、どのように死ぬか、それは分かりません。
そんなこともあって、どこか他人ごとに思えてしまい、なかなか死というものを考えることができませんよね。
自分たちの命は、風に吹かれるろうそくの炎のように、実は儚いものであるはずなのに、そんなことに気づこうともせず生きています。

死というものを考えないということは、裏を返せば、自分自身の命の在り方、生きるということの意味について考えていないということではないでしょうか。

それがお墓参りというご縁をいただいたことで、故人さまの死を通して、自分の命の在り方を考えるいいきっかけ、ご縁になっているのではないでしょうか。

浄土真宗でのお墓参りやご法事ごとというのは、お参りされる方々が故人さまをお偲びするご縁であるとともに、お参りされる方々に命の在り方、生きることを考えるきっかけとして、そしてなにより阿弥陀様のお用きに出遇っていただくご縁として、故人さまがお参りされる方々のためにご用意くださっているのですね。

お墓にこだわりを持ってはいなくても、お墓参りはとても大切なご縁としていただいています。

みなさんはお墓参りに行かれましたか。
どのようなことを想いながらのお墓参りだったのでしょうか。

本日も西岸寺のホームページにようこそお参りくださいました。

 江東区扇橋にあるお寺
 浄土真宗本願寺派 西岸寺(さいがんじ)