自分の中にある喜びを

こんにちは、副住職です。
気がつけばもう3月も終わりですね。
もう4月なんて、すでに1年の四分の一が終わりです。。。
早すぎます。

また更新の期間が空いてしまいましたが、なんとか毎日をこなしています。

先日、お彼岸のお中日である3月21日は西岸寺のご近所で江東区大島にある浄楽寺さまにご法座のご縁をいただいて出向させていただきました。

ご法座=布教をさせていただくことは本当に有り難いことで、阿弥陀さまのみ教えをお伝えさせていただきながら、自分自身がその阿弥陀さまのお用きの中にあることにあらためて気付かせていただくことでもあります。

以前、布教の勉強のために半年間、京都で仲間と一緒に合宿をしていたことがあります。

そこではお坊さんの大先輩方が先生として、阿弥陀さまのみ教えをいかに伝えていくかを教えてくださり、もともとお寺出身ではなく仏教や浄土真宗に縁がなかった私にとっては、先生方の講義がそれこそ本当に有り難いご法座であったわけです。

そんな講義の中で、ある先生がこんなことを話してくださいました。

「私たちがいくら言葉を尽くしても阿弥陀さまのみ教え全てを伝えることはもちろんできないし、ましてや誰かを救うことなんてできるものではありません」
「私たちにできることは、私たち自身がいかに阿弥陀さまのみ教え、救いのお用きを喜ばせていただいているか、それを伝えるだけです」

この言葉はとても腑に落ちたというか、「ああ、そのとおりだな」と心に入ってきました。

今は仏教である浄土真宗のお坊さんなので、布教、つまり阿弥陀さまのみ教えを伝え広めることが私の務めです。
これはいわゆる宗教家としては当たり前のことですし、どの宗教、宗派だろうと変わりありません。

ですが、お坊さんになってから、この「み教えを伝えて広める」ことが相手にとって押しつけであってはいけないし、強制的ではいけないと考えています。

このホームページも運営している最終的な目的としては「み教えを広めていくこと」なので、こちらからは皆さんにお寺のことや私のことを知っていただくようにいろいろな情報を発信していきますが、それを見てくださっている皆さんがどう受け取るかは皆さんの判断によりますよね。

仏教でもキリスト教でも、神道でもそうですが、宗教は受け入れるも受け入れないも、それを受け取る側の気持ち次第であって、こちら側がそれを決めることはできません。
「去る者は追わず、来る者は拒まず」ですね。

そう考えていたので「自分がみ教えに出偶えた喜びを伝えればいい」という先生の言葉がとても印象に残っています。

そして、それを常に意識して布教のご法座でお話しさせていただいています。

 江東区扇橋にあるお寺
 浄土真宗本願寺派 西岸寺(さいがんじ)