「自覚」と「覚悟」

こんにちは、副住職です。

先日の更新で布教のときに心がけていることをお話ししました。

「自分自身が阿弥陀さまのみ教えに出偶えた喜びをお話しする」ことですが、もうひとつ心がけていることがあります。

これは何も布教のときだけではなく、普段もそうなのですが、それは「人が人に発する言葉は全てが暴力性を伴いうることを自覚する」ことです。

「暴力性」というと少し言葉が強いかもしれませんが「傷つける可能性がある」ということで、これにはふたつの意味があると考えています。

それは「自分の言葉で誰かを傷つける可能性がある」ことと「自分が誰かの言葉で傷つく可能性がある」ことです。

こう書くと話す内容についていろいろな配慮をして誰も何も傷つかないようにしているのかと思われるかもしれませんが、そういうわけではないのです。

もちろん配慮はさせていただいていますが、お参りしてくださっている全ての方々に対して、全てのことに配慮させていただくことはできないと考えています。

私は布教でお話しさせていただくときに、よく自分の家族、とりわけ子どもたちの話しをよくします。

それは家族の姿、家族との関わりを通して、私自身が阿弥陀さまのお用きの中で生かされている喜びに気づかせていただくことが多いからです。

すると、たまにアドバイスをお坊さんからいただくことがあります。

「子どもを欲しくても授かれない人への配慮がないのではないか」

そして、ほとんどの場合はこう続きます。

「だから、私は子どもの話しはしないようにしている」

アドバイスをいただけることは有り難いことだと思いますし、いろいろな配慮があるということも分かります。

繰り返しになりますが、配慮が必要なことは当たり前です。
では、どこまではOKでどこからがNGなのか。

Aのことに配慮することで、その人はAについて傷つくことがなくなるかもしれません、じゃあBでは、次にCではどうでしょうか。
D、E、F・・・Zについては、その人はどう思うのでしょうか。

それは誰にも分かりませんよね。
ひょっとしたら本人ですら気がついていないこともあるでしょう。

「Aに”さえ”配慮すれば、この人は傷つかないだろう」という考え方は「A”以外のこと”で、この人は傷つかないだろう」という考え方につながります。

その考え方はとても危ないと思うのです。

人はそれぞれひとりひとり生き方も違えば、もちろん考え方も違います。

好きなもの、嫌いなもの、気持ちのいいもの、悪いもの、そして配慮が必要なことも違います。

「~さえ」という考え方は余計にその人を傷つける可能性があることを忘れないようにしたいと思っています。

そして、全ての配慮を考えすぎると最終的に「何もせず、何も話さない」ということしかできないことになってしまい「阿弥陀さまのみ教えに出偶えた喜び」をお話しすることもできなくなってしまいます。

だからこそ、そういった中で想像力を働かせて配慮するのと同時に「自分の言葉で誰かを傷つける可能性」を自覚することは大切なことだと考えています。

そしてそれは「自分が誰かの言葉で傷つく可能性」も覚悟しなくてはいけないことに他なりません。

この「自覚」と「覚悟」は自分の中でとても大きな意味を持っています。

 江東区扇橋にあるお寺
 浄土真宗本願寺派 西岸寺(さいがんじ)