確かにここに居たこと

こんにちは、副住職です。

また更新期間が空いてしまいました。

もう10月という事実に恐れおののいています。。。

つい先日「令和」になったのに、いつの間にか消費税も上がり、もうあと三か月で元年が終わりなんて。

そんな中で、少しずつですが「出偶えた喜び(5)」を書き進めています。

前回までで主に私生活での大きな変化である子どもを授かったことで「子どもと出会えた喜び」についてお話ししました。

そしてこれからは、その子どもとの出会いを通して私自身が「阿弥陀さまのみ教え、お用きに出偶えた喜び」をお話ししていきたいと思っています。

ですが、この時期のことは、私の(以前の)仕事に対する心境の変化や環境の変化などでいろいろなことがあり、なかなかすっとまとめることが難しいです。

当時一年間ほどはずっと自分はどうするべきか、どうしたいのか、どうありたいのか、そんなことを考えていたので、ちょっと油断するとだらだらと書き連ねてしまうので、振り返りつつまとめつつし、もう少しお時間いただいてシリーズ更新したいと思います。

さて、今回は先日ネットで読んだある記事について思ったことをお話ししてみたいと思います。

『ハフポスト日本版』というオンラインメディアがあるのですが、その下記の記事です。

ロンブー田村淳さん、慶應大学院生になっていた。理由は「死者との対話」を学ぶため

お笑い芸人の田村さんですが、少し前に番組の企画と連動して青山学院大学法学部を目指して勉強していらっしゃいました。

残念ながら不合格になってしまいましたが、やはり勉強したい気持ちが諦められず、慶應大学の通信課程に進み、そして今年の4月から慶應大学の大学院に入り直していたそうです。

青山学院大学を受験されたのは知っていましたが、さらにそこから慶応大学の大学院に進まれているなんてまったく知りませんでした。

仕事も大変でしょうし、なぜそこまでして大学という学びの場にこだわったか。

なぜ、大学院へ進学したのか。一体何を学び、何を実現しようとしているのか。話を聞きに行くと、いまは「死者との対話」について勉強しているのだという。

「死者との対話」というと一般的にはオカルト的なことを思い浮かべてしまいそうですが、どういうことかしら、と思いつつ記事を読み進めました。

そうしたら、死者との対話ではなく、実は「(今を)生きている自分との対話」なんだと感じました。

この記事の中で田村さんがやりたいこととしてひとつのサービスを挙げています。

それは、人の“死に方”にもっと多様性を提案すること。具体的には「itakoto(イタコト)」という遺書の動画サービスをつくることです。死者の霊を呼び寄せ、その意思を語るといわれている「いたこ」にちなんで名付けました。

遺書の動画サービスつくるというサービス、しかもネーミングが「いたこ」にちなんで「イタコト」。

ネーミングのセンスには「え~」と思いましたが、それはともかくとして、この「遺書を動画で残す」というサービスはとてもいいと思いました。

みなさんもドラマや映画でご覧になったことがあると思います。

「あなたがこれ(動画)を見ているということは、私はすでにあなたのそばに居ないでしょう」といったセリフで始まって、大切な人にメッセージを伝える場面。

ここで主人公は何を伝えたいのか、自分だったら何を誰に伝えるのか、想像したことがあるのではないでしょうか。

「延命治療はやめてね」とか、「こんな弔われ方をしたい」など、元気なうちに家族に対して、自分の死に方にまつわるメッセージを残せたらいいのに。働き方や生き方には多様性が増えてきたのに、なぜ“死に方”の多様性は広がらないのか。そんな思いから、ずっと作りたいと思ってきたサービスです。

そんなに数は多くないですが、僕がこれまでおじいちゃんおばあちゃんたちに話を聞いてきた感じだと、大半が“死に方”に関する意向を家族に伝えていないんですね。「長生きすればするほどよい」という常識みたいなものがあって、それ以上の会話は、実はなされていない。

「死」とか「葬い」ってタブー視されすぎていて、身近な人同士でも全然語られていません。最近だとお葬式も多少個性的なスタイルが出てきていますが、もっとそれを当たり前にしたい。

「私は死んだらね、こんな風にして欲しいのよ〜」という会話を、もっとポップというか、カジュアルな感じで始められたらいいなぁと思いますし、遺書だって何度も書いてみたらいいですよね。

田村さんはこのようにお話しされています。

記事での語り口は普段の田村さんのイメージもあって、それこそポップでカジュアルな感じに聞こえますが「長く生きることがいい」が常識となっている世の中で、では、病気であったりいろいろな事情によって「(長く)生きることができない」方たちはとても苦しい思いをしているのではないか、「死」や「葬い」がタブー視されすぎているせいで、そういった方たちが「自分自身の死に向き合うこと」「大切な人に自分自身の死について伝えること」ができにくくなってしまっているのではないか、そんなことも考えられているのかな、と感じました。

そして、この記事を読んだとき、残された方々も同じように「亡くなられた悲しみに向き合うこと」「亡くなられた方を想うこと」がなかなか表立ってできにくいこともあるのではないかと私は思ったのですね。

私はお坊さんですので、お通夜やお葬儀に出仕させていただくことがもちろんあります。

浄土真宗でのお通夜、お葬儀は、亡くなった方をご縁とさせていただいて、残された方々に阿弥陀さまのみ教え、救いのお用きに出偶っていただく大切なご仏縁として行われます。
そして、阿弥陀さまのお用きによってお浄土で仏さまとなられた故人さまと、またお浄土で、今度はお互いに仏としてご一緒させていただくことを誓う大切なご縁です。

死というものは、それでお終いではなく、阿弥陀さまの救いのお用きでお浄土に往生させていただき、仏としての命をいただく貴重なご仏縁であるると受け止めていくわけですね。

私もお通夜やお葬儀のときには皆さんにそんなお話しをさせていただきます。
それはもちろんこれが浄土真宗の肝要だからです。

でも、いくら「死んだらお終いではない、仏としての命をいただくのである」といっても、残された方々にとっては割り切れるものではないのですよね。

やはり大切な方を亡くしたことは辛いし悲しいし、苦しい。

そんな気持ちに、残された方々はちゃんと向き合えているだろうか、私はそのお手伝いができているだろうか、ちゃんと寄り添えているだろうか、そんなことをいつも考えています。

そんなこともあって、続けて田村さんがお話しされていることがとても心に残りました。

僕も娘に遺書を書いてみたことがあるのでわかるのですが、一回で“いい遺書”なんて書けません。全然思いがまとまらなくて…。「こんなに長く書いたら、娘は、ぽかん? となりそうだな」と、何度も書き直すうちに、最初は生き方のノウハウを伝えるメッセージだったのが、どんどん祈りに近づいていくんですね。とにかく健康でいてくれればいい、と。

私も家族に遺書を残すとしたらダラダラと長くいろいろなことを書いてしまいそうです。
でも、残された方に対してのメッセージがどんどん祈りに近づいていくというのは、本当にそうだと思いました。
今、顔を浮かべながら思うと、本当に「元気でいてくれるだけでいい」と思います。
(これを書きながらちょっと泣きそうです)

伝えたいことがどんどん純粋になっていって「とにかく健康でいてくれればいい」という祈りになっていく。
それはまさに「自分が何を伝えたいか」という「今を生きている自分との対話」だと思います。

こうしたプロセスが、逝く方にも残される方にも大事な気がするし、「itakoto」は、両者に寄り添うサービスにしたいです。

この「プロセス」は本来であればお通夜、お葬式である「葬送儀礼」が担うものであったはずなので、私たちお坊さんの力不足が恥ずかしくもあります。

私たちがもっとちゃんと阿弥陀さまのみ教え、お用きをお伝えしていけるように精進していくことはもちろんですが、この「itakoto」のようなサービスも受け入れながら、どうすれば、より亡くなった方、残された方に寄り添っていけるのか、考え続けなくてはいけないですね。

(あ、「イタコト」という名前は、ひょっとしたら遺言を残す方が「確かにここに”居たこと”」という意味も込められているのかも・・・)

 江東区扇橋にあるお寺
 浄土真宗本願寺派 西岸寺(さいがんじ)